先延ばしのジレンマから解放!入浴ハードルを下げる方法とは
はじめまして、じゃないんです。記念すべき2本目のコラムになります。どうも、琳堂ヤコです。
「はじめましてなんだが…」という方は、私の自己紹介も含めておりますのでどうぞ1本目の記念すべきコラムをご笑覧いただければと思います。
「実生活と戦う」第1戦:入浴との格闘
さて、今回は「実生活と戦う」という大テーマを掲げ、その第1戦目として「入浴」を相手にします。
「え…『実生活と戦う』ってなに…?」と思ったそこの方。さては実生活がうまくいってますね?おめでとうございます。貴殿の益々のご健勝をお祈りいたします。
この記事は、「マジで入浴に至るまでのハードルが高すぎる!先延ばしがやべえ!」という方に向けたものです。
仕事以前に、やはりそれなりの健康的な生活がなければ心身がやせ細っていってしまいますからね。
そんなこと言ったって、「気が向かないことへの拒否感が体感100倍くらいある」的なところがある傾向の人や、精神病や身体障害などで「動く」ことに対しハードルが高い方には「勝ち取ろう!」だなんて言葉だけでは薄っぺらい形骸化した応援定型文なわけです。季節のご挨拶みたいなもんです。響きの虚しさ谷底のごとし。
ADHDで双極性障害Ⅱ型を持つ私にとっても「入浴」というのはハードルが極めて高い時期がありました。
ADHDによる「拒否感で動けなくなる」という、いわゆる「先延ばし」はまだしも、抑うつ状態でなかなか入浴ができない時期があったのです。今も正直、毎日面倒に思ってますけどね。
当時、私は「入浴をした後のサッパリ感は知ってるし、いつも気持ちよく思ってる…でも…入れない…辛い…もういいかな…でも昨日も入ってないから入らなきゃ…でも…」と思っていました。
Twitterでは「風呂を倒した」という文言があるくらい、精神病の一部の人にとっては「入浴」というのは高いハードルなのです。
入浴を「倒す」から「和解」へ?風呂との葛藤
ある日わたしは、入浴を先延ばしにしながら考えていました。
「風呂を倒す」。
つまり、風呂を打ち負かしたというわけですよね。
だけれど、あのサッパリ感をくれた風呂は、私と戦いたいわけではない。じゃあ、私はこう言おうじゃないか。
「風呂と和解してきた」と──。
──無駄でした。入れん。マジで入れんわ。
「和解」の協定は翌日には反故にされました。正確には反故にしました。無理だわ。表現変えただけではどうにもならんわこれ。
そしてまた私は考えました。風呂とは和解できそうにない。風呂を倒すこともできず和解することもできない。
なぜなら、入浴というのはまず脱衣所まで足労し、衣服を脱ぎ(冬は重ね着で地獄)、風呂場に足を踏み入れ、シャワーで一度体を流し、そして髪を濡らし、シャンプーを手にとり、頭に乗せ、撫でるように泡立て、頭皮を粗方マッサージしたら流水で落とし、次はリンスを同じような行程を経て終わらせ、次は洗顔をし、その次は体を洗い、そして流し、次はバスタオルを取り体と髪を拭き…
あーだりい書いてるだけでダルくなってきたわ。なんならこれを書いている深夜3時もまだ入浴してませんわ。
入浴の定義を変えれば、ハードルは下がるのか?
私は更に考えました。
何がここまで入浴を妨げるのかは分かっている。症状と私の発達特性である。でもそれが一朝一夕にどうにかなるものではないのは明確である。
ピコーン!
そう、「入浴」の定義を変えればいいのである。
我ながら天才だと思いました。完全に天才。天才のそれ。それは天才。 It is me who is smart. さすが俺!ってこと!
入浴とは前述した行程を経た「全身の洗浄とその後の水切り・乾燥・着衣」だった。これこそが入浴を先延ばしにする原因なのだとして、「入浴とは」の方を変えちまえばいい。
うーん、なるべくハードル低くしたいな。毎日できるやつ。
そして私はまた思いつきました。
「手を洗ってメイクを落とす」。
これを「入浴」とす。
「す」で語呂よくしてんじゃねえよと思ってる人いますよね。そういうとこやぞ。頑張ってるねって思ってあげてよ私に。頑張って自責の念を減らそうとしてるってわけなんですから。
入浴を軽く考えることが精神のセルフケアになる理由
こんなに軽い口調で書いておりますが、「自責の念を減らす」というのは、精神病や発達特性を持つ人々にとっては非常に重要です。症状の悪化や二次障害に繋がりかねないのです。
「入浴できていない」ということが、外出を妨げたり、実生活すらできないという自責の念に変わったり、「入浴すべき」という「べき思考 (should thought) 」との最悪の相性で更なる自己否定や抑うつ状態にさせていったりするのです。
「手を洗って顔を洗えば入浴!」
これでいいじゃないですか。
調子がいいときはお湯だけ浴びるのもいいじゃないですか。もうちょっと調子が良いなら頭を丁寧に洗ってあげるとか。
「洗ってあげる」んです。自分を大切にできそうなときに、「してあげる」。それでいいんです。
病と闘い、障害と戦う人が生き延びた一日がどんなに尊いことか。
「入浴をしていない」ことがその尊さをなくすのですか。あり得ません。
入浴を避け、精神的負担を軽減するのもまたセルフケアなのです。そして、「入浴」と呼ぶ行為をもっと簡単にしてやればいいのです。
「手と顔を洗ったら入浴」
「首から下をお湯で流したら入浴」
「足首から下だけ洗ったら入浴」
それでいいじゃないですか。入浴は第一に他者のためにあるわけではなく、第一に自分の衛生・健康のためにあるのです。
「自分のために」入浴するのです。だから、手と顔を洗うだけでも自分を大切にできたならそれでいいじゃん。
理解できましたよね。私も理解しました。自分のことを縛り上げていたのは自分の固定概念で、その概念をぶち破って、「これでいいや」で済ませる。そのために、「入浴」の定義を変えちゃえば、「入浴した」って言えちゃう。
ぜひ、試してみてくださいね。
覚えておいてください。「入浴」とは、「自分のためにしてあげるセルフケア」です。
はい、じゃあ今回はここで筆をおきます。
あーーーーーお風呂入ってくるわ。だる。マジでだりいけどお風呂入ってくる。応援しといて。
あーマジでだりいなーもう。今日はもう頭洗わなくていい気がしてきた。心が綺麗だからいいんじゃないかなコレ。
では、また今度!
※本コラムは2023年6月に「パラちゃんねるカフェ」に投稿されたものを再編集しています。