はじめまして。車いすの元気配達人です。

柳岡さんがマイクの前で講演している様子。壇上には色とりどりの花が飾られています。

~自己紹介編1~

はじめまして、車いすの元気配達人、柳岡 克子です。
パラちゃんねるでのコラム連載の機会をいただきました。

私は生まれつき重度の障害があります。
生まれた直後は仮死状態で泣かなかったそうです。

そんな私の生い立ちと自己紹介から始めてみます。

仮死状態で生まれた私のエピソード

和歌山県って知っていますか?
よく岡山県と間違われます。
近畿のおまけみたいです。

白浜って知っていますか?
飛行機が飛んでいるのですよ。
空港があって東京へ50分で飛んでいきます。

だから最近、東京の事務所が
リゾートと自然にあこがれてリモートの
仕事をする会社が増えています。
週末に飛行機で東京に帰るという感じです。

パンダがたくさん(日本一多い)動物園が
あるのですが知られていません。

そこから北へ1時間、
御坊市という町で私は生まれました。

と言っても
「オギャー」と言わなかったそうです。

皆さんは「オギャー」と言いましたか?
「はーい」

「覚えてますか?」
覚えてないのにはーいと言いましたね(笑)

要するに私も覚えてないのですが
仮死状態で生まれて泣かなかったそうです。

そんなこんなで
あちこちに障害があって
御坊市、人口3万人(当時)の
街では、手に負えないということで
和歌山市内の大きな病院に入院しました。

生後すぐに行ったアキレス腱の手術

白い布に包まれた新生児の小さな足。柔らかく温かみのあるシーンが描かれています。

まずアキレス腱が切れていて
引っ付ける手術をしました。

次に指がくっついていたので
切り離してお腹の筋肉を張り付ける手術。
股関節脱臼をちゃんとする手術。

まあ、私は何も覚えていないのが
ある意味幸せかなあ。

生まれたばかりの赤ん坊が
こんな手術を繰り返して
家族は大変心配したかと思います。

手術室へ入るベッドの上でも
笑っていた健気な(自分で言うな)
赤ちゃんでした。

私が2歳半まで歩けなかった理由

青いシャツを着た子供が、黄色と白のストライプシャツを着た大人の手を握って歩いている様子。温かい交流の瞬間が捉えられています。

皆さんは何歳でよちよち歩きましたか?
「1歳ぐらいの人」
「はーい」

「覚えていますか?」(笑)
また引っ掛かりましたね。

まあ、だいたい1歳ぐらいで普通は歩けるようになるようです。
覚えていないでしょうが、
手を上げてしまった方(ワハハ)。

実は
私は2歳半まで
歩けませんでした。

手術やリハビリの甲斐があって
歩けるようになって
これ以上医療的な治療はないということで
御坊の自宅に帰ってきました。

私は、入院中のことはほとんど覚えていません。
写真を見る限り
絵本を手に持って笑っているのが
薄らうすら記憶の片隅にあるようなないような感じです。

ということで
入院中、合い部屋の人たちや
家族が話しかけてくれたので
言葉を覚えるのが早かったようです。

いわゆるおしゃべりな女の子になっちゃった。

絵本もたくさん読んでもらったようで
幼稚園に入るころには
「あいうえお」が読めたり数字の数え方もわかりました。

左右や色も答えられました。
動物の写真を見たら名前が言えました。

一人っ子で育った私が学んだ社会生活

赤いブランコとカラフルな遊具がある幼稚園の遊び場。静かな昼間の風景が広がっています。

家の近くにお寺さんが経営している
幼稚園がありました。

2年保育に入るために母が
車の運転免許を取ってくれました。

当時女性で車の運転ができる人は少なく
父は反対しました。

しかし、母は私を幼稚園に送り迎えするのに
必ず必要になるからと父を説得して
地元の教習所へ通ってくれました。

煙樹ヶ浜という美浜町の松林の中にあります。
そこからはきれいな海岸があって
泳げない大きな海が見えます。
天気のいい日には四国が見えます。
無事母は、免許を取ることができ
私は幼稚園に通うことができました。

ところが、途中おしっこがしたくなった時
一人でできません。
腰が曲がらないからです。
膝も曲がらないのでかがむこともできません。

そこで幼稚園の先生に
介助をお願いしました。

初めて社会生活に入りました。
今まで一人っ子で
しかも障害があるから可愛いとか
大切に扱われて
わがままもし放題に育ってきました。

でも友達というのができて
仲良くしなければいけないということを学びました。

友達の優しさで解決したじゃんけんの問題

幼稚園の教室内の食事スペース。小さなテーブルと椅子が並び、壁には子供たちの絵が飾られています。

じゃんけんをして
喧嘩をしないようにすることも学びました。

私は「パー」を出しました。
皆も「パー」でした。

皆は「勝った」と言いました。
私は、「これはパーだよ」と言ったけど
どう見ても「グーにしか見えません」

そうです。私の指は広がらないのです。
ほんの少し自分では違いを出しているつもりでも
友達から見ればすべて「グー」でした。

それでいつも「パー」出して
私が負けということにされました。

それを見かねた友達が
メモに「グー」「チョキ」「パー」と
書いてこれを出せばいいと考えてくれました。
私は、これでじゃんけんができるようになりました。

それからは、さくら組を終えて
ゆり組になり
卒園すると小学生になるのが楽しみになりました。

ところが
ここで障害がネックになるのです。
続きは、次回に書きますね。
お楽しみに。

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ABOUT ME
1964年生まれ。和歌山県御坊市出身。先天性四肢関節拘縮症。2歳半まで手術のため入院生活、歩けるようになる。地元の幼稚園に通い、母の送り迎えで養護学校ではなく健常児と同じ学校に通う。神戸学院大学卒業後、学習塾を経営する。御坊市身体障害者福祉協会の会長を10年し、現在公益社団法人日本オストミー協会和歌山県支部の支部長をしている。