生まれつき全く目が見えない私。さまざまな方と接する中で、ふと感じたことがある。障害に対して配慮されること。障害などすっかり忘れられること。結局私はどっちを望んでいるのだろう。
「放置」でお願いします
「放置でいいんだよね?」
親しい友人と食事をするとき、そう聞かれることがある。私は喜んで、「もちろん」と答える。そう、放置でいいのだ。全く目が見えないので気を遣ってくれる人もいるけれど、私は思う存分一人で格闘したい。
テーブルの上にたくさんの食べ物が並んでいる、そういう場が苦手である。状況が把握しづらい。こんなときは、手を付ける前にどこに何があるのか聞いておくのが賢明というものだ。それはよくわかっている。
でも、私はあえて、丁寧な説明を求めない。そんなことより雑談を楽しみたい。だから、「これ何かな、わからないけどまあいいか」とプレゼントの箱を開けるときのような気分で食事を始める。
おかげで指をソースだらけにしたり、紙を食べてしまいそうになったり、私の食事風景は悲惨なものだ。それでも最後まで放置をお願いする。「こっちを見ないでね」という雰囲気で。
何ならスマホなんか夢中で見ていてくれても一向にかまわない(まあ、せっかく一緒にいるのだからスマホより私に意識を向けてほしいけれど)。心置きなく格闘させてもらえる、このやりたい放題感がたまらないのだ。
見えないことなんて忘れていてくれてOK
障害に対して配慮されない。これはとても気が楽だ。むしろ、見えないことを忘れていてくれるぐらいでいいと私は思っている。
時々親しい人にそういう対応をされることがあり、「あの、私見えてないって知ってるよね?」と確認したくなるのだけれど、実はそれが嬉しいのだ。
例えば友人などから、「見て見てー」という感じで画像のようなものが届いたりする。私宛に、だ。こうなると、「うーん、どんな感想を述べればいいんだろう」と困惑する。
周りにいる誰かに見てもらって、その上で何かコメントするべきなのか。はたまた「いやいや見えへんし、わからへんやんけ!」とでもツッコミを入れるべきなのか。大いに迷う。
でも、こうして迷いながら、ひそかにガッツポーズするのである。悪くないな、と。
配慮は嬉しい
ただ、もちろん配慮していただけるのだって歓迎しないわけではない。
食事の際には放置がいいとか何とか言いつつも、「6時の位置にご飯があって、7時の位置に……」などと丁寧に説明してもらえたらやっぱり嬉しい。失敗する前に助けてもらえたりしたらありがたい。安心して食べられるというのも大事だ。
またあるとき、点字で書かれた手紙をもらったことがあり、これにも感激した。差出人は普段点字を使用する人ではないはずなのに、私のためにそうしてくれたのだ。墨字(一般の文字)で書いてくれても、誰かに読んでもらえば内容はわかる。メールなど使えば文字のやり取りは簡単にできる。
それなのにあえて、手間も時間もかかる点字を選んでくれたのだ。長年点字を愛用してきた私でさえ最近は紙にそれを書く機会が減っていて、書き方を忘れるんじゃないかと心配になるくらいなのに。
誰かの目や機械を介してではなく、直接その人の文字に触れられる。何と素晴らしいことだろうと思ったものだ。
どっちを望んでいるのか
さて、ここで一つ疑問が浮かぶ。障害に対して配慮されること。障害などすっかり忘れられること。結局私はどっちを望んでいるのだろう。じっくり考えてみた。
そうして行きついたのは、「どっちを望んでいるという話ではないな」という結論だった。配慮されるにしても、忘れられるにしても、嬉しいと感じる場合には共通点がある。そこが重要なポイントなのだ。
そのポイントとは何か。「私を見てくれている」というところだ。「全盲」という部分だけではなく、「私」を。
全盲。この要素は無駄に目立つし、私に大きな影響を与えるものであることは確かだ。とはいえ、当然「私の成分全盲100%」というわけではない。
女で、小柄で、音楽が好きで、こんにゃくが好きで、茄子が若干苦手で、超小心者で、それでいて好奇心旺盛で、めんどくさがりで……と、私という人間はいろんな要素でできている。その要素を丸ごと受け止めてくれた上でのサポート。丸ごと受け止めてくれているからこそのスルー。私にはそれが心地よいのだと思う。
私も丸ごと受け止めたい
私自身も、属性だとか職業だとか、わかりやすい一部分しか見ないで相手に不快な思いをさせてしまうことがあるかもしれない。そうならないように、この「丸ごと受け止めよう精神」は常に持っていようと心に決めている。
もちろんこれは簡単なことではない。相手をちゃんと見るためにはそれなりの時間や関わりの深さが必要になるだろう。だからまずは、「自分はまだ相手をちゃんと知らないのだ」と認識するところから始めることが大切なのではないだろうか。
お互いにそんな視点を持てたら、コミュニケーションはきっと、もっとハッピーなものになるはずだ。私はそう信じている。