自立と依存④「社会モデルの自立」を実践して気づいた、変えるべきもの

遠くから撮った遊園地と山のイメージ

16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。「医学モデルの自立」と「社会モデルの自立」の違いを知り、実践していく中で気づいた自分の価値観や考え方、周囲との関わり方で変えなくてはいけないものとはなにか。

障害者は意外と条件付きの「自立」はある

日常動作(ADL)が、体調によっては出来ない場合があったり、頑張ったら出来ることだったり、出来るけどとても時間がかかったりと、そういう条件付きの「自立」は多い。

例えば私の場合、着替えには20~30分くらいかかる。シャツやズボンのボタンは頑張れば留めることが出来るが、時間がかかるし、ものによっては固くて留められないこともある。

ジーパンやタイトスカートなど伸びない素材の服は着にくく、真ん中がずれたりスカートの裾がクシャクシャになったりして綺麗に履けない。足が変形しているせいもあって靴を自分で履くのが難しい。

「頑張れば出来る」「気合を入れればなんとか出来る」を、「出来る」の中に含めて「自分で出来るのだから人に頼らず自力でやりましょう」としてしまうと結構しんどい。

こういう、まるで子供が大人に成長する過程において身辺のことを自力でできるようになるように、障害者が、なるべく大人の健常者らしくなる、健常者に近づくように努力することを、「医学モデルの自立」と呼ぶのだということは前回の記事で書いた。

夜の日本の路地、提灯が並ぶ風景。
自立と依存③障害者施設を抜け出して飲み屋で知った「社会モデルの自立」16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。2年以上、管理された障害者施設内で外界との接触もなく、集団生活をしていた頃に溜まったストレスとモヤモヤ。ふと施設を抜け出した夜に飲み屋で知った「社会モデルの自立」。これが自立生活のきっかけになった。...

リハビリの葛藤

病院や訓練施設では、医学モデルの自立をめざし(私の場合は就職を最終目標とした)、約2年間リハビリをしてきた。

しかし、1日の時間は限られている。車椅子からの移乗、着替えに時間がかかる私にとって、数回トイレに行けば(トイレ自体も時間がかかる)、あっという間に数時間が経つ。

到底まともに働けない。

それに、訓練施設ではジャージやトレーナーなど着やすい服、おばあちゃんが履いているようなバリバリのついたリハビリ靴で生活していたが、社会に出るとなれば、それだけではやっていけないし、私生活でもっと色んなファッションを楽しむ選択の自由がほしい。

これを誰かに頼ることができれば、もっと有効に時間を使うことが出来るのに…。

こう考えることは「甘えている」「依存している」ことになるのだろうか?「わがまま」だろうか。

何よりも、自分の中で葛藤があった。自立した大人に、誰にも迷惑にならず自分のことは自分で何でも出来る一人前の社会人に、なりたかったからだ。

何でも人並みには出来た健常者の頃の自分を知っているからこそ、出来ないことを認めることはなおさら悔しい。

子供の頃、自分ひとりの力で生きていけるようになりなさい、と母は常々言っていた。義父も厳しかった。

でも、何にも頼らずに生きようとして、最悪の事態―自殺未遂―に陥っていったのではないだろうか?

それに、私が求めているのは、皆と同じように「普通に」生活することだ。何か特別に高級な生活がしたいわけではない。人より多くの自由がほしいと言っているわけではない。

そんな開き直りもあって、出来ないこと難しいことは頼る、ヘルパーを使った生活を始めた。

「自立生活」の実践は難しい

遠くから撮った遊園地と山のイメージ

社会モデルに共感して「自立生活」を始めた私だが、いざ実践となるとなかなかすぐにはうまくいかない。

やってもらうことに申し訳無さがつきまとう。そうやって得た時間を私は有効に使えているのか?といつも自分を責める。

逆に、どうしてこんなに気が利かないんだろう、と勝手に期待してむかついたり、意思が伝わっていなかったときにイライラしたり。

他人をうまく頼れないものだから、特に恋人に対して、極度に甘えてしまったり、その逆でやってほしいことをやってと言えず、変に気を遣って逆に迷惑をかけてしまったり……ということもあって、「なんでもっと早く言わないの?」と「それくらい自分でやったら?」にがんじがらめになり、幾度もすれ違った。

恋人から「どうしたいのかわからない」「何を考えているのかわからない」と言われ、戸惑う。本当のことを言えば嫌われるのではないか、嫌がられるのではないかと思って言えないのに、そんなふうに言われましても……とさえも言えなくて、へらへら笑うしかなかった。

また「女性障害者」である自分を持て余していた。いわゆる「女性らしい」ことをすることができずに、やってもらうばかりの自分にいつも「至らない」と落ち込んだ。性的魅力にも欠けていると自分自身が強く思い込んだ。

やってもらう立場だから、こんな私を叱ってくれるからと、苦手な人にもいい顔をして、本音を隠して苦しんだ。それでも、この人達がいないと自分はやっていけないんだと思い込んでいた。

自信がないから言いたいことが言えず、溜め込んでしまった不満がコントロール不能になって爆発する、ということを度々やらかした。

まとめ

二宮敏泰さんのイラストの1つ
Illustration by Toshiyasu Ninomiya

望まれたことを望まれたとおりにやりさえすれば報われる、愛されると思っていた。

そういえば今までずっとそうやってきたのだ。嫌だと思うこと、合わないと思うこともやった。生きるためには仕方がなかったところもある。やってみると知らない世界が拓けることもあって、それはそれでいいこともあった。

だからこそ、自分は間違っている、大人の言うことさえ聞いていれば間違いないと、極端に思ったのかもしれない。少なくとも私の親たちよりはマシだ。死を選ぶよりはマシだ、と。

そうやっているうちに、自分が一体何がしたいのかがわからなくなる。

「楽しい」ってなんだっけ?早く大人にならなきゃ、と好きだったものを次々手放した。

本、漫画、ゲーム。欲しい物を我慢した。洋服、コスメ、アクセサリー。インドアは暗い、着飾ることは贅沢だ、お前の書く文章は排泄物でまだ読むに値しない、と、ひたすら自分を否定され続けていった。

「なんでも肯定する人は無責任で嘘つきだ」という言葉も、自縛する呪いになった。叱ってくれる、私を半人前として扱う人が正しいのだと思った。私を好いてくれたり応援してくれたりする人を自ら遠ざけてしまった。

当時それらをまるで他人のせいのように、自分が被害者のように思い込んでいたところがあった。もう10年近く前の話だ。しかし、今はそうじゃないことがわかる。

私自身が「自分は何もできない人間だ」「未熟な人間だ」と思い込み、自ら自分を否定し、せっかく地域で自立生活をやっているのに、実際には施設の暮らしの中で行われていた「自立できていない人間は保護の対象」という価値観と殆ど変わらないことをやっていたのだった。

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ABOUT ME
1993年生まれ。詩人。16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車椅子に。障害を負ったことで生きづらさから解放され、今は小さな温泉街で町の人に支えてもらいながら猫と楽しく暮らす。 ■詩集の購入はこちら