哲学は福祉の当事者に何が出来るのか?

積み重ねられた本の山

私は哲学というものをよく知りません。ズブの素人です。

しかし哲学・思想に関する書籍は、全くそれらを読まない人の一生分くらいは読み込んでおり、哲学者の言葉が全く理解不能というほど無知でもないという、中途半端な人間でもあります。

だからこそ、哲学者を名乗る人種に対してある種の偏見というか胡散臭さを感じるのです。

そもそも哲学とは…?

どうも、一生食えると思っていた玄米茶づけ(タッパーに玄米を一合入れて永谷園の梅茶漬けの元を2袋入れる)に完全に飽きてきた糸ちゃんです。もう見るのもイヤです。

さて、タイトルについてなんですが、最近やたらとこのテーマについて考えさせられる機会がありました。

1つは先日記事に書いた哲学の大先生が参加する読書会。もう1つはつい一昨日行った映画の上映会です。障害者の自立生活を追ったドキュメンタリーで内容は大変良かったのですが、その後行われたやはり哲学の先生が監督と話すトークイベントで、ちょっと「アレ?」と思うところがありました。違和感というやつです。

先に断っておくと、私は哲学というものをよく知りません。ズブの素人です。

しかし哲学・思想に関する書籍は、全くそれらを読まない人の一生分くらいは読み込んでおり、哲学者の言葉が全く理解不能というほど無知でもないという、中途半端な人間でもあります。

だからこそ、哲学者を名乗る人種に対してある種の偏見というか胡散臭さを感じるのです。詳しく書いていきます。

枝にとまっているコマドリ

哲学者と福祉の対象者の間には、深い溝がある

まず、福祉というのは基本的に実践の場です。どんな高尚な理想・理念を教育されても、現実の支援の場に活かされていなければ何の意味もありません。「共感」だの「受容」だの頭でわかっていても、それが通用しないコトは多々あります。

そして、福祉の対象者は更に深刻です。先に挙げた哲学者の方は「『なぜ生きるのか?』という簡単な問いからでも哲学を始めることができる」と言われていましたが、例えば生活困窮者(ホームレス・生活保護受給世帯・職のない障害者)なんかはその日食っていくので精一杯なわけです。まさに毎日を乗り切るので精一杯、本など読んでいる暇はない、と。そこに高邁(こうまい)で深淵な哲学という学問が、どうやって彼ら・彼女らに関与していけるというのでしょうか?

つまり、そもそも哲学という高度な知の領域にアクセスできない人たち(福祉の対象者)と、安定した収入や名声を得てゆっくり思索にふける経済的・時間的な余裕がある人たち(哲学者)の間にはとんでもなく深い断絶があると考えることができます。

古代ギリシアでは賢人たちが毎日喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を日々戦わせ、哲学を学問として成立させるための努力をしていました。しかしそれは、下賤で低俗な労働を全部奴隷にやらせていたから可能だったことです。ここにも実生活と哲学の解離が見られます。

通りで本を読んでいる男性と並んで座る人々

ただ、哲学者側も擁護しておかなくてはなりません。私は先ほど「本を読む暇などない」という表現をしましたが、これは非常に多くの大人たちが口にすることです。本当は優雅に読書して教養を深めたいという気持ちはあるが、仕事や育児に追われて余裕がないから「仕方なく」読書(ひいては哲学)をあきらめているというわけですね。

これは確かに一部の事実を反映していますが、果たして本当にそうなのでしょうか? 多分に私の偏見が入ってきますが、こうした人たちは時間があっても読書などしません。よく観察していると、明らかに余暇の時間が生活の中に断続的にであれ発生しているのにも関わらず、その時間はスマホいじり、YouTubeの動画視聴、果てはソーシャルゲームなどに充てられています。つまりこういう構図です。

本を読む(哲学する)時間などない=実は最初からそんなことに時間を浪費する価値はないと感じている。

→しかし読書を通じて教養を深めるのは社会的に良いとされる(してないとバカにされる)ことだ。そのため葛藤が生じるがそこに「時間がない」という最強の大義名分を発見する。

→結果、本当は時間があれば自分だってそういう読書だの哲学だのといった貴族的な趣味を楽しみたいが、そんな余裕はないから出来ないという言い訳が容易く成立しそれを多用する。

まあ言ってみれば自己欺瞞ですね。私も一応まっとうに働いていて休日もあれこれ動いているので、当然、全く時間がない日もたくさんあります。しかし、毎日必ず少しでもいいから本を読み思索する時間は確保できているのです。つまりこれは意識の問題であって、そのような時間は受動的に「ある」のではなく意識的に「創る(設ける)」必要があるんですね。

建物に取り付けられた大きな時計

哲学と福祉の架け橋になるのは…

と、ここまで哲学者側の擁護をしてきましたが、やはり福祉と哲学の間に存在するどうしようもない懸隔(けんかく)は議論する価値のあるテーマだと考えられます。先述した映画の監督は「一度立ち止まって考えてみる」ことから哲学へのアクセスが可能になると言われていましたが、立ち止まったら即死ぬような生活をしている人たちに対して説得力があるかは微妙なところです。

ただ、これは例の読書会で別の先生から教えていただいたことなのですが、哲学の語源とはギリシア語のPhilosophyであり、更に分解するとPhilo=愛するSophia=知識ということらしいので、つまり哲学は知識を愛することを指すのです。私はこれに大変深いものを感じます。

愛する、というのは言ってみればただの態度です。ここに相対的・客観的な価値判断は存在していません。よく恋愛ドラマなどで「俺はお前を愛している、だって愛しているから!」という同語反復(トートロジー)的なちょっとよくわからない妄言をのたまう人がいますが(いない?)、あれは真理だと言えます。だって愛しているんだから仕方ねェじゃんか! なんでそれを証明する必要があるんだヨ!? と(こんなこと言われたら惚れますね)。

結論として、厳密な学問としての哲学を志すなら、まず膨大な量の古典を読み込み、論文を書く際は根拠・出典・論理展開とその整合性を完璧にこなさなくてはなりませんが、愛となると話は別です。知識を愛すること、この社会の仕組みや人間を知ろうと些細でもいいから興味を持つこと。福祉と哲学の間に何か架け橋が作れるとすれば、案外そんなところから始まるのだと思われます。ちなみに私は読者を愛しています。おわり。

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ABOUT ME
1994年生まれ。いじめや家庭内不和で精神障害(双極性障害Ⅱ型)を発症しながらも、福祉系の大学で4年間福祉について学び精神保健福祉士を取得。現在は大分県別府市にある訪問介護事業所で事務・広報の仕事をしている。 ライターとしての心がけは「しんどいことを楽しく伝える」こと。自身の体験を専門職と当事者両方の視点で語っていきたい。