僕は30歳になってから、脳出血が原因で左手と左足が動かなくなる障害を負いました。肉体的、精神的に弱っていたときに行った一人で1週間のシンガポール旅行。その経験は、僕のその後の人生に大きな影響を与えてくれました。
不安な旅の始まり
僕は明るくなりつつある景色を高速バスから眺めながらとても不安な時間を過ごしていました。
洋式トイレがなかったらどうしよう。つたない英語が伝わらなかったら……。何よりパスポートや貴重品の入った荷物を取られて走って逃げられたら、もうどうにもならない。
いろいろな不安とよくわからない絶望感。まだ始まってもないのに。
というのも、僕は30歳になってから脳出血が原因で重度障害を負っていたのです。
「無理していかなくてもなー。」という考えもよぎりましたが、僕は決めていました。
必ず一人で海外旅行を成功させてから社会復帰するんだ!それができたら、きっと何かが変わるはず。それが俺のやり方だ、と。
突然の脳出血による重度障害
僕は30歳のときに左手と左足が動かなくなり、障害を抱えることになりました。その日は突然やってきました。
記憶にはありませんがコンビニの若い店員が駐車場で倒れてる僕を見て救急車を呼んでくれたそうです。突然の脳出血でした。それは脳動静脈奇形(AVM)という先天性の病気が引き起こしたものでした。
「頭の血管が切れるとバットで頭を殴られたように痛い」と聞いたことがありましたが、僕の場合は違いました。
気付いたらベッドの上で横たわっていました。状況が理解できずに動こうと思いましたが、まったく体がいうことを聞きません。
「なんなんだ」と思いながら煩わしいほどに体にまとわりついている管を引っ張りながら立ち上がり歩こうとしました。
しかし、思うように体が動かず、頭からこけてしまいました。周りに看護師の人たちが集まってくるのを眺めながら僕は初めて、「自分はとんでもないことにまきこまれてしまったんだ」と気付きました。
後にわかったことですが、僕がベッドから落ちたのは救急車で運ばれて2週間ほど経ってからのことでした。僕は大きな手術を受けて、体中を管で繋がれた状態で2週間生死をさまよっていたのです。
シンガポールへの挑戦
話は戻りますが、僕は広島からシンガポールに旅行に出かけていました。お付きの人は誰もいません。大手術をして重度障害者となった僕にとって、一人で海外に行くことはチャレンジ満載の旅でもありました。
30歳という働き盛りの年齢に重い障害を抱えることになり、僕は肉体的にも精神的にも弱っていましたが、同時に、「1人で海外旅行をやりきる」ということに熱く燃えていました。何か自分を取り戻せると思っていたのかもしれません。
自分なりに全く動かない左腕と少しだけ動く左足で、できる限りの準備をしてシンガポール旅行に出発しました。それでも、行きの空港までの高速バスでは不安だらけで寝ることもできない精神状態でした。
シンガポール旅行の期間は1週間ほどでしたが、その1週間の経験は、その後の僕の障害者人生に大きな影響を与えてくれました。
わけのわからない大失敗も含めて、どれをとってもなかなか面白い話ではありますが、その中でも「日本とは文化と国民性がちがうな」と感じた話をしたいと思います。
シンガポールでの経験
有名なマーライオン国立公園に行ったとき、僕はマーライオンを大きなモニュメントのイメージで見に行きましたが、実際はだいぶ期待外れ。「こんなに小さかったの?」と落胆してしまいました。
呆然とマーライオンを眺めていると2人の外国人が話しかけてきました。
スピードの早すぎる滑舌の良い英語が僕には聞き取れませんでしたが、どうやら1人のほうがマーライオンの水を口から出すような恰好をして後の一人がそれを口で受け止める恰好をするから写真にとってくれないかと頼んでいるようでした。
僕は写真を片手で撮って、カメラをその2人に返しました。
カメラを渡すとき、「おや?」と違和感を覚えました。 障害者になってから写真を撮ってほしいなんて頼まれたのは初めてだったからです。
僕は杖を持っているので、身体が不自由なことは伝わったはずですが、そのことはお構いなしに頼んできました。日本では考えにくいことです。
日本では僕が杖を持っているだけで腫物扱いされることもしばしばありますし、何かを頼んでくる人なんて出会ったことがなかったのです。
障害を超えて
その出来事があってから僕は初めての場所でも道行く人にでも気兼ねなく話しかけられるようになりました。
障害者である自分がシンガポールという国で認められたような感覚がしました。その二人組は僕の障害者としてのバリアを溶かしてくれた気がします。
彼らの態度は「観光に来て、俺たちが楽しいことをやるからちょっと写真に撮ってくれよな」という軽いノリだったのです。
なんだか楽しかった。一緒に笑った。「これでいいんだ。これが自分が求めていた多様性だ。」と感じられた。これは、1人で行かなければ得ることのできない経験だっただろうなと今でも思っています。
僕はその後、日本に戻ってから障害者雇用枠で働き、3人の子供を持つことになります。1番下の子は現在6歳になる男の子です。彼は生まれた時から障害のある父親を持っているということになります。
ほかの父親のように高い高いなんてできなかったし、まともに抱っこをしてやれたこともない。他にもボール遊びやキャッチボール、釣り、周りの子がお父さんにしてもらったであろうことを何もできないお父さんでした。
でも、彼は優しい子です。「親ばかな部分を差し引いても、多様性という部分ではかなり非凡ではないか」と僕は思っています。それはできないなりに父親をがんばってきた僕の誇りです。
奥さんは超厳しい。その厳しさは「障害を持った僕がだめにならないように」との彼女なりの気遣いと優しさだと僕は思っています。彼女とはかなりのスピード結婚だったため、「おそらく彼女は僕の障害を受容できていないままに結婚したんじゃないかな」と思います。
今でこそ彼女は僕の1番の理解者ですが、結婚生活は新婚の時から一筋縄ではいきませんでした。何度もぶつかりながら、築いてきた夫婦関係です。
感謝の気持ち
いろいろ書きたいことはあるけれど初めての記事はこのくらいにしておきます。
今後は機会があれば、スピード婚をした奥さんや、彼女の2人の連れ子との人間模様を記事に書いていきたいなと考えています。
僕がここまで精神的にも肉体的にも回復できたことは、周りの人たちのおかげです。彼ら、彼女らに何よりも、ありがとうの気持ちを伝えたい。自己紹介の記事は、感謝の言葉で締めくくらせてもらいます。今後もよろしくお願いします。