16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。2年以上、管理された障害者施設内で外界との接触もなく、集団生活をしていた頃に溜まったストレスとモヤモヤ。ふと施設を抜け出した夜に飲み屋で知った「社会モデルの自立」。これが自立生活のきっかけになった。
回復期の病院でのリハビリの現実
回復期の病院で半年頑張れば復学できる、と思っていたが、実際はそう楽なものではなかった。日々のリハビリのおかげで多くの日常動作(ADL)が自立できたものの、それは病院という整えられた環境の中での限られたものだった。
ベッドや車いす間の移乗、排泄のコントロール、入浴は自立できないままだった。頸髄損傷という障害に対して、専門的な知識を持つ者が病院内におらず、手探りでのリハビリだったこともあった。
この障害に特化した障害者支援施設があるとのことで、退院後はそちらに入所することとなる。自立訓練、就労移行支援、施設入所支援が受けられ、社会復帰を目指して訓練しながら、出来ないことは介助を受けて生活できる訓練施設だった。
当時、女性の入所者が圧倒的に少なく、男性50名に対して、女性は私を含めて2名で、多いときは5名ほど、一番少ないときは私だけ、ということもあった。
理由を聞いたところ、職員の数が限られており、男性職員による身体介助があるから、との返答だった。
正直、というか、当たり前に嫌だったが、背に腹は変えられない。結果的には、それが嫌で早くADLを自立できたところもあり、私にはプラスに働いたが、障害が重度で自立が難しい人にとっては苦痛だろう。
頸髄損傷女性の排尿自立の困難さ
前にも書いたが、頸損女性の排尿の自立は困難だ。筋肉の量も男性に比べると女性は元々少ないため、同じ障害レベルの男性と比較したときに、やはり自分で出来ることは少なくなってしまい、介助量は増える。
男性職員だって好きで女性の介助をするわけではないのだから、システムが改善されていることを願うばかりだ。これでは障害者女性の自立が進まない。
訓練は病院以上にハードだったが、ADLだけでなく、就職のための知識や技術も習得でき、車の免許の取得まで面倒を見てくれた。
およそ一年半かけて訓練をしたが、以前書いたとおり、高校復学、大学進学の道は閉ざされ、就職を検討することになった。しかし仕事はなかなか見つからない。帰る家もない。施設も入所期間の上限が近づいていた。
職業リハビリテーションセンター入所の勧め
担当のソーシャルワーカーに職業リハビリテーションセンターの入所を勧められる。最長一年間、職業訓練を受けられる障害者向けの訓練校で、入所すれば障害者リハビリテーションセンターの寮で生活出来るのだという。
就職のため、より専門的な知識を身につけられるという触れ込みであり、事実そうなのかもしれないが、私にはただの時間稼ぎに感じられた。
それに寮は頚損(頚髄損傷)仕様にはなっていないらしく、より健常者に近づくことを求められる。
真面目に訓練してきたものの、運動が苦手なこともあってか、どんなに練習しても出来ない動作があり、ADLの自立も頭打ちになってきていた。
特に端座位での移乗(両足をおろして座ったままの状態で乗り移ること)は、筋力の無さ、痙性、足の変形などを理由に失敗して床に落ちるリスクが大きく、完全に自立することは難しそうだった。
床に落ちてしまえば、自力で車椅子に戻ることは出来ない。これも訓練をしたのだが、結局出来るようにはなれなかった。
想像してみてほしい。多目的トイレで移乗に失敗し、あるいは用を足しているときにうっかり便器から落ち、どうにも出来ずに床に転がっている様を。
多目的トイレには万一のための呼び出しブザーが付いてはいるが、そんな状況で見知らぬ誰かを呼び出したくはない。
じゃあ、出来るようになればいいのでは、と思われるかもしれない。実際、出来ないままでいるのは甘えなのかもしれない、と悩んだ。
だからこそツインバスケや車いすマラソンをやってみたりもして、体力も筋力もかなりつけたのだが、それでも出来なかった。極度の運動音痴が災いしたのだと思っている。
普通の生活への憧れと苦悩
一体いつになったら普通の生活が出来るのだろう。
この時点で2年以上、管理された施設内でほとんど外界との接触もなく集団生活をしていることになる。
元々あまり集団にいることが得意でない私には、朝から晩まで毎日きっちりと時間割があって、起床時間、食事の内容、消灯、就寝時間まで決められている生活を苦痛に感じ始めていた。
部屋は共同でプライバシーもない。わがままを言える状況でないことはもちろん分かった上で、それでもしんどくて、トイレの中でこっそり涙することもあった。
その反動か、施設を抜け出して夜の街をふらふらすることが増えた。
プチ家出みたいなものかもしれない。夜の10時には施設に戻ってベッドにいないといけない。施設が施錠されるからだ。鍵が開くのは朝の7時。ならば帰らなければいいのだ、と思いついたのだった。
これが朝帰りというやつか、未成年のくせに生意気だったな、と今になって思うが、ルールには接触していないので、誰からも怒られる筋合いはなかった。
車椅子の若い女の子というのは、割と珍しいらしく、外に出ると声をかけられたり、奢ってもらえたり、ちやほやされることが多かった。頑張っているのにうまくいかない現状にもやもやしていた私にはそれが心地よかった。
飲み屋で出会った障害者自立生活センターのスタッフ
そんなとき、飲み屋で偶然出会ったのが、障害者自立生活センター(CIL)の当事者スタッフだった。
彼の話で私は、今まで私が目指していた自立は「医学モデルの自立」であることを知る。
健常者と同じになるために自分を矯正していき、身体的・精神的・経済的に自立する(文献によって若干定義が違うが、だいたいこの3つ)ことであるらしい。これは子供が大人になっていく自立にも近いもののように思う。
そうではない自立の仕方があるのだ、と彼は言った。いわゆる「社会モデルの自立」だ。
社会モデルでは、他者への依存はOKで、しかし、自分自身のことは自分で決める。他者からのコントロールを受けない、というものだった。なんだがそれってずるくないのかな、というのが最初の感想だった。迷惑をかけているくせにわがままを言う。そんな感じに聞こえてならなかった。
しかし、彼らの生活は楽しそうだった。自分で選んだ気の合う同性のヘルパーに介助をしてもらって生活にかかる時間を短縮し、その分外で遊んだり、社会運動をしたり。好きな時間に起き、寝ることが出来る。夜遊びして朝寝しても怒られることはない。
難しいことはよくわからないが、職を与えてくれ、生活する家をいっしょに探してくれるということで(街に恋人が出来たこともあり)、自立生活を始めることにした。
施設の職員はせっかく勉強する機会があるのにもったいない、とか、もっと出来ることを増やすべきだ、とか、反対したが、公的機関の限界や現実を知って不信感を募らせていたこともあり、「自己決定」は揺らがなかった。
母は一緒に暮らそうと障害者向けの県営住宅を見つけてくれていたが、それも無理やり押し切った。もう、保護されたり支配されたりするのは嫌だった。自由を手にしたかった。