重度障害者の僕が2人の子どものシングルマザーと結婚をしました。重度の障害を抱えながらの子育てへの不安。いつまでも自分の出来ない部分だけを見て迷いながら過ごす僕を変えてくれたのは子供たちでした。
はじめに
3人の子供を持つ僕ですが長女(20歳)と長男(19歳)は奥さんの連れ子です。次男(6歳)は再婚後にできた子供ということになります。
重度障害者の僕と、2人のシングルマザーである彼女。結婚生活で何度もぶつかりながらここまで何とかやってきました。
夫婦や家族との間で僕ができないことをどのようにフォローしてもらうか、お互いに不満が出にくいように折り合いをつけることは本当に難しかったですし、今もできているとは思いません。
色々あったのは夫婦生活だけではありません。僕はそれまで独身でしたが、彼女と結婚したことで子育ても同時に始まったのです。
結婚当初は長女が中1、長男が小6という多感な時期でした。子供たちにとっては思春期に新しく来たお父さんが重度障害者だなんて、そう、想像しただけでもなかなかハードですよね。
多感な時期で反抗期でもあった子供たちとは激動の日々でした。
激動の日々の理由
そのころ僕はお世辞にも良い父親なんて言えたものではありませんでした。子供を育てたこともなく、障害で喜怒哀楽を抑えることが難しかったため、今考えても父親として恥ずかしいですが、子供たちに当たり散らしたこともあります。
僕は30歳のときに、脳出血が原因で左手と左足が動かなくなりました。身体障害だけではなく、高次脳機能障害と呼ばれる脳の障害もあります。
障害を負う前にはそれほど感情を表に出さなかった僕がむき出しの感情を出してしまっていたことは、おそらく脳の障害の後遺症だったのでしょう。脳の一部が傷つくと、感情のコントロールが難しくなることもあるのです。
今考えると、あれほどまでに感情をむき出しにしてしまったのは、重度の障害を抱えながらの子育てへの不安ややるせなさ、自分のふがいなさ、そんなあらゆるマイナスのネガティブな感情が日常の中でミックスされていたからかもしれません。
障害はいつでもどんな時にも僕の前に立ちはだかりました。「障害者の自分にはまともな子育てなんてできるはずはないっ!」何度もこのような言葉が心に思い浮かんだのを覚えています。
僕を変えてくれたのは子供たち
いつまでも自分の出来ない部分だけを見て迷いながら過ごす僕を変えてくれたのは子供たちでした。
今でこそ「子育ては育てているようで、実は自分が育てられている」という言葉を自信を持って言える僕ですがその頃は「障害があることでほかの父親と同じようにしてあげることができない」と、当時は後ろ向きに考えていました。
でも、実際は違いました。人それぞれ持っているものが違い、自分なりの父親があり、一生懸命に伝え続ければ子供たちにも気持ちが通じるのです。
例えば僕の場合、長女は異性なこともあり奥さんに「あなた達は水と油だ」と言わしめるほどにぶつかった時期もありました。そんな彼女も今年でついに成人式を迎え、夢を追いかけて京都でがんばっています。いつのころからか親と子供という関係を越えて、人として娘のことを尊敬できるようになりました。
そこにはもう僕が障害者ということは関係ありません。ちょうどそんな感情が芽生えたころから彼女との喧嘩もなくなり、家を出ていってしまった今ではさみしさを感じるほどです。
おわりに
僕と子供たちは、いわゆる普通の家庭とは全く違う環境の子育てになりました。何を持って普通とするかは人それぞれですが、少なくとも僕が育った環境とはちがいます。子供たちも、歳を重ねるごとにそのことを実感していったのではないかと思います。
「生みの親より育ての親」という言葉が日本にはありますが、僕は生みの親だろうが育ての親だろうが、愛情をもってその子が自立するまで見守ってやれるなら大いに合格点ではないかと思っています。
僕は人としても一人前とはとても言えなかったですし、自分の障害に悩み続け、いつも弱さと抱え、時には投げやりになることもありながら生きてきました。
自分がここにいてもいい。自分なりにできる役割がある。障害者であることや体が動くかどうかは関係ない。必要とされるから出来ることを前向きにやればそれでいいんだと教えてくれたのは子供たちかもしれません。
だからと言って、僕は今でも自分のことをよい父親だとはとても言えないですし、それはこれからも悩むと思います。
ただ、子供たち3人が、障害を抱える僕が一生懸命に社会に立ち向かって頑張っている姿を見て、少しでも何かを感じとってくれたなら、それで僕は幸せなのです。
今回も読んでいただきありがとうございます。僕の経験談の中では子供のこともあるのでナイーブな部分を書かせていただきました。何かを考えるきっかけ、障害者について考えるきっかけになったらうれしいです。