16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。会社勤め、起業、フリーランスとさまざまな働き方を経験してきた中で気づいた「謙虚」の重要性。謙虚と自己肯定感の関係性、謙虚と傲慢、卑屈の違いなど、私自身が感じていることをまとめました。
褒め言葉への返答で悩む理由
「謙虚な人になりなさい」と誰しも一度は言われたことがあるのではないだろうか。
謙虚という美徳を好む人、または好ましいものだと思っていて、自身もそうありたい人は多いだろう。
私も子供の頃はよく親から「謙虚な人間になりなさい」と言われてきた。
ところで、謙虚とはどういうことだろうか。
仲良くしているベトナム人留学生の女の子がこんなことを言っていた。
「バイト先で『可愛いね』とよく言われますが、どう答えればいいですか?『はい、そうです』と言うのは駄目だと聞きました。けれど『いいえ、違います』と言うと嘘になってしまいます」
あんまり大真面目に言うので笑ってしまったが、大変自信があっていいなあと思う。実際彼女はとてもチャーミングで町の人気者だった。
他者から褒められたときにどうやって返すかは案外悩むものだ。
反射的に「そんなことないですよ。私なんてまだまだです」とちょっと自分を下げて返しがちな気がする。率直に「ありがとうございます」と言えるといいのだが、横柄な印象は与えたくない……。
話す相手にもよるのかもしれないが、この「いい塩梅」というのが難しい。
謙虚を辞書で引けば、「ひかえめで、つつましやかなこと。へりくだって、つつましやかにすること。」と書いてある。要するに控えめで傲らない態度を言うのだと思うが、どうもまだピンとこない。
今回は「謙虚」について考えてみたいと思う。働くうえで「謙虚さ」とは大切なのではないだろうか。
間違った謙虚
横柄な人、傲慢な人と思われたくないがため、人から好かれたい、あるいは嫌われたくないために、「謙虚」らしく振る舞おうとして、自己卑下に陥ることがある。
先の例で挙げたように、誰かから褒められても「いえいえ、私なんて……」と自分をおとしめた返答をしてしまう。相手に気に入られたい一心で人を褒めるときに自分をおとしめて相手を持ち上げてしまう。
そんな経験がある人はきっと私だけではないだろう。思えば自意識過剰で、自己肯定感が低かったように思う。
立ち振舞いは謙虚っぽく見えても、実は態度とは裏腹に傲慢であるのかもしれない。
傲慢や卑屈がどんなときに現れるかといえば、他者と自分とを比較したときだ。もちろん、他者との比較は人間の本能であり、正確な自己評価を得るために必要なことではある。
けれども自分と向き合うこと無く過度に他人ばかり気にしていると、正確な評価が出来なくなって苦しい。自分との比較で他者を捉えることで、相手によって傲慢と卑屈は簡単に裏返る。
そう、傲慢も卑屈も、自分を中心に据えた自分本位の考え方から、自己を捉え損ねている。
自己中心的な考え方をしているために他者の価値観を受け付けられないので、褒められたときにそのまま受け取ることができずに否定してしまう。
自己肯定感が低いので、自分より上だと思う人がいれば、自分が傷つく前に先に自分で自分を下げておく。そして場合によっては相手に「そんなことないよ」と言ってもらって承認欲求を満たしたい。それは謙虚ではなく自己防衛でしかない。
謙虚と自己肯定感
自己肯定感とはありのままの自分を肯定する感覚のこと。
一見、謙虚と自己肯定感は相反するように思える。この程度の自分を肯定するなんて、傲慢なのではないか、と。
しかし、それは逆で、自分で自分を認められないから「自分は駄目だ」と思うが、それは「本当の自分はもっと素晴らしい人間のはずなんだ」の裏返しだ。
「今は訳あって自分の真価を発揮できていない。まだ本気を出していないだけ」と、何かのせいにして自分に言い訳をし、幻想に縋っている。
それは能力によって人を判定しているばかりでなく、自身を過大評価しているに過ぎない。
ありのままを認められない自分こそが謙虚から一番遠くにいる。
謙虚とは何か
謙虚とは、自分の立っている場所を正確に見極めることではないだろうか。
傲慢にも卑屈にもならずに見極めるには、その事実を受け入れ、認めることが出来なくてはならない。
「世評というものは、世評に無関心な人々よりも、はっきりと世評をこわがっている人々に対して、つねにいっそう暴虐である」と哲学者バートランド・ラッセルは「幸福論」で言っている。
「他人と比較してものを考える習慣は,致命的な習慣である」とも。
他者の評価を受け入れながらもそれに依り過ぎない、理性的な自己を持つことが必要なのかもしれない。
つまり謙虚とは、バランスそのもののことなのではないだろうか。これは働くうえで最も大切なことではないかと思う。