16歳の時に飛び降り自殺を図り頸髄を損傷。以後車いすに。「障害者」「女性」と切り分けて考えられることはあるものの、「女性障害者」という切り口で生きづらさや困りごと、支援などを議論されることは多くない。そんな中で「インターセクショナリティ」という言葉に出会った。
インターセクショナリティとは
「インターセクショナリティ」という言葉をご存知だろうか。
フラットな日本語にすれば「交差性」、ネガティブなニュアンスだと「狭間」という言葉に訳されるらしい。
私にとってはつい最近知った、まだまだ馴染みの浅い言葉だが、どうやら自分自身がその「狭間」の只中にいるらしく、興味を抱いた。
ウィキペディアによるとインターセクショナリティとは、「個人のアイデンティティが複数組み合わさることによって起こる特有の差別や抑圧を理解するための枠組み」のこととある。
人種やジェンダー、階級、障害の有無など、いくつもの要因が絡み合うことで起こる特有の差別や抑圧、不利益があるが、それらは多様で社会問題としては捉えにくく「個人の問題」として取るに足らないものとされがちだ。それにスポットを当てて洞察し、社会問題化することで当事者を連帯につなげていくことがインターセクショナリティというツールの役目だ。
よく挙げられるのが、アフリカン・アメリカン女性の例だが、黒人であるとともに女性であり労働者である彼女たちが直面する問題は、公民権運動、フェミニズム運動、労働組合運動、どの社会運動体でも回収されることがなく取りこぼされ、軽視された。
単一のカテゴリで差別の問題を切り取る時、どうしても見落とされてしまうものがある。
こうした問題への対処として、インターセクショナリティというツールが使われるようになったのだという。
障害のある女子のインターセクショナリティ
日本は2014年、国連の「障害者の権利に関する条約」に批准した。その第6条に「障害のある女子」についての条文がある。
第六条 障害のある女子
1 締約国は、障害のある女子が複合的な差別を受けていることを認識するものとし、この点に関し、障害のある女子が全ての人権及び基本的自由を完全かつ平等に享有することを確保するための措置をとる。
2 締約国は、女子に対してこの条約に定める人権及び基本的自由を行使し、及び享有することを保障することを目的として、女子の完全な能力開発、向上及び自律的な力の育成を確保するための全ての適当な措置をとる。
この条文に書かれている「複合的な差別」こそ交差性だ。
女性障害者はこれまで女性に対する政策やフェミニズム運動からは障害者としての問題が取りこぼされ、また障害者に対する政策や障害者運動からは女性としての問題が取りこぼされてきた。
私も普段毎日利用しているヘルパー制度では、女性障害者が結婚・出産し、子育てをする可能性は考慮されてはおらず、あくまで基本的には家族が当事者の生活を支え、足りない部分だけを支援するという格好だ。
例えば食事は本人のものしか作ってもらえない。掃除洗濯などもそうで、むしろ配偶者がいると支援の時間が削られてしまうことも。これでは配偶者への負担が大きくなってしまう。
育児に関しても、現状ではそれらへの困りごとに対処してくれるような制度設計はなく、結婚や出産が阻害されている。
就労に関しても、障害のある女性の就職は難しく、女性障害者の有業率はなんと3割弱。年収は年金や手当を含めても平均92万円と、これでは自立はほぼ不可能だろう。その他にも性的被害やハラスメントなど、立場の弱さがもたらす困難も大きくなりがちだ。
そのような実態が一応は問題とされる中で、これは私の感覚だが、女性障害者同士の連帯はあまりなされていないように思う。
女性障害者はマイノリティの中のマイノリティであり、その交差性によって社会参加が阻まれがちだ。言ってみたところでなかなか他人にわかってもらえない悩みや問題をそもそも口に出すこと自体が憚られ、よってそれを共有する機会は必然的に少なくなるのではないか。
先日、とある座談会で、同世代の女性障害当事者と女性障害者の性の悩みについて語らう機会があった。その体験と、体験を通じて感じたこと・考えたことを次回の記事でまとめてみようと思う。