22歳のある日、私はいきなり意識を失い、痙攣を起こして泡を吹いて倒れた。医師から伝えられた診断名は「てんかん」。今回は、これまで私がどうやっててんかん発作と向き合ってきたか、についてまとめた。
日常に潜むてんかん発作の恐怖
それは、ある日突然やってくる。
牛丼屋で友人とカウンター席に座っていると、眩しい、神経が張り詰めている自分がわかる。
「あ、やばい」
自分で自分の様子を探る。今日はどうなるか。友人といるし意識を失いたくない、迷惑がかかる。
ゾワゾワと悪寒が始まって、強烈な耳鳴り、引きつけが始まる。
「・・・ああ、今日は駄目だ」
目の前の視野が暗く狭くなる。
「・・・うううううっ」
意識が遠のく。カウンター席からずり落ちて頭をぶつけた音が聞こえる。
てんかん発作は時と場所を選ばない。ある日、突然やってくる。これが日常的に繰り返される。椅子に座っている時も歩いている時も関係ない。薬を服用しても効果がない日もある。意識消失するときは意識消失して倒れるのだ。
22歳のある日、私はいきなり意識を失い、痙攣を起こして泡を吹いて倒れた。救急車で運ばれた先の病院で医師から「てんかん」と診断された。
てんかんとは、突然意識を失って反応が無くなるなどの「てんかん発作」を繰り返す病気だ。てんかん発作は一時的なもので、発作が終わると元通りの状態に回復する。
原因や症状も人によってちがうが、脳の一部の神経細胞が一時的に異常な電気活動を起こすことによって生じると言われている。
てんかん障害を隠して生きる理由
基本的に発作さえ起きなければ問題はない。もっと自由に活動したいというもどかしさを抱えながら、薬を服用し、外出する。外出は好きだ。特に天気が良いときは。
私の場合、「倒れたら倒れたらでいいや」と気楽に構えて過剰に恐れないことで日常生活を送ってきたような気がする。あまり難しく考えなかった。
ただ「人に迷惑をかけたくない」と言う思いから健常者のように振る舞い、周囲の人々に自分が抱えるてんかん障害について伝えてこなかった。
家族以外、私の障害についてほとんど知らない。友人にも詳しい事は伝えなかった。目の前で発作が起きてしまった人は驚かせてしまうので申し訳ないが、同じ人の前で2回以上倒れなければ「からだの調子が悪かったのかな?脱水症状かな?貧血かな?」くらいにしか思われない。
誰も私が障害を抱えていることなど気づかない。それでいいと思ったのだ。てんかん障害を伝え、差別や奇異の目で見られる事を恐れたのかもしれない。隠そうとすると少しずつ距離ができてしまい、私は次第に人との関わりを避けるようになっていた。
健常者の仮面
プライベートでは人との関わりを避けるようになっていたが、流石に生活の為に働かなければならない。
私の中ではいつの間にか「いかに周囲にてんかん障害について気づかれず、健常者の世界に溶け込めるか?」がテーマとなっていた。そのテーマには無理があることを知ったのは働くようになってからだ。
20代後半のある日、いつもの様に倒れて救急車で搬送された。問題はその倒れた場所が職場だったことだ。
私は差別や奇異の目に対する恐怖心から「ああ、これで会社をクビになってしまう」と極端な思考に陥ってしまった。そのときに、「てんかんを会社に伝えずに働くことは難しいのかもしれない」と知った。
会社から病院に搬送されると、プライベートとは違って社員として会社側に説明責任が出てくる。
その時は神妙に「実は」と話を切り出すのだ。いざ、正直に話をしてみると、「なんだよ、ちゃんと言ってくれよ」と意外と理解される事が多い。食わず嫌い宜しく言わず嫌いなのだ。
もしかしたら、なんでも最初に素直に正直に言うべきなのかもしれない。てんかんの意識消失発作について部分寛解に至った今、過去を振り返ってみれば「20代からもっと周囲に心を開いて頼ればよかった」と、後悔している。
ブラックユーモアで乗り切る
てんかん発作は時と場所を選ばない。ある日、突然やってくる。これが日常的に繰り返される。薬を飲んでも、どれだけ気を付けていても、倒れる日は倒れる。
私よりも重度のてんかん障害で辛い思いをしている人達は大勢いる。ずっと発作を抱えながら生きていく人や徐々に重症化していく人もいる中で、完治とは言えないまでも、部分寛解に至った私はラッキーだ。感謝しなければならない。
その上、過去にはてんかんを抱えながらも偉大な功績を残した有名人も多数いるのだ。
不謹慎かもしれないが、「ジャンヌ・ダルク、ドストエフスキー、アインシュタインといった偉人達と同じ神がかり的な病にかかるなんて光栄だ、いずれは大成するんじゃないか?」と自分を励ましてきた。
これまで、そうやってブラックユーモアで乗り切ってきた道程だった。